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学習の旅 大地にきざまれた自然の傷跡 ── 節理

タロコ峡谷ではその成分によって黒や白、灰色など色の違う層が重なった巨大な大理石が見られます。

岩石や岩層には必ず割れ目があります。これは大自然の長い歳月の中で、さまざまな外部からの力や岩石同士のせめぎ合いによって生まれたものです。一見何の規則もないように見える岩の割れ目ですが、その多くには実は規則性があります。割れ目の両側の岩層に移動が見られないものが「節理」です。一方、一部の岩層は割れ目が大きく開き、その両側の岩が相対的に移動していることがあります。これを「断層」とよびます。

一箇所の岩層に多くの節理や断層が見られたら、そこの岩層は比較的もろく、崩れやすいので、やや危険な区域だということになります。タロコ国立公園は、強烈な圧力によって形成された変成岩区に属しているので、岩層中の節理と断層が非常に発達しており、雨が降ったりすると落石や崖崩れが発生しやすいのです。

節理の割れ目は通常一筋ではなく、ほぼ並行して幾筋も通っています。その規模は大小さまざまで、長さ数センチから数十メートル、さらに数百メートルになるものまであります。密度もさまざまで、数センチ間隔で密集しているところもあります。ほぼ平行の割れ目が同じ方向に伸びている場合、一組の節理だと考えられ、別の方向に向かって並行した割れ目が集中して見られる場合、それは前者とは別の節理になります。

巨大な大理石の複雑に曲がりくねった褶曲模様は大昔に起きた地殻変動のはかり知れない大きさを物語っています。

節理は緻密で固い岩に多く発生します。硬度の低い岩の場合、内部組織が柔らかく、外からの力に適応できるため節理が生じることはほとんどありません。堆積岩地帯では、節理の大多数は砂岩と石灰岩に見られ、頁岩にはほとんど見られません。タロコ国立公園内には変成岩しかなく、大理石と変成砂岩の節理が最もよく見られます。片岩や千枚岩、板岩は比較的柔らかいため節理はあまり見られません。

岩の上に複数の節理が互いに垂直に発生する場合があります。それが海岸の岩にできた場合、海水の浸食を受けて節理の割れ目が大きくなり、硬い岩石がまるで豆腐を並べたように四角く区切られてみえることがあります。このような岩は「豆腐岩」とよばれ、台湾東北部の野柳や基隆の和平島の海岸などに多く見られます。

岩石または岩層の節理は恐ろしいものではありません。見方を変えれば、これらの節理があるからこそ、自然景観もさらに豊かで美しいものになるといえるのではないでしょうか。(文:鄒東羽)

学習の旅 峡谷の岩肌に育つ緑

太魯閣峡谷では土壌が薄く、常に強風にさらされているため背丈の高い植物は育ちません。日当たりのよい所ではササやアシの仲間が風にゆれています。

太魯閣峡谷を散策すると、誰もが峡谷の壮大な景色に目を奪われるものです。同時に切り立った岩肌に揺れる緑の植物にも注目してみてください。これらの岩石の割れ目、隙間に根をはる「岩生植物」も峡谷の大事な住民です。

「岩生植物」の多くは陽性で乾燥に強いのが特徴です。この種の植物は土壌の厚い地域において中性または陰性の植物と競争できないため、競争相手の少ない岩の上に生息しているのです。植物は自分自身で移動できないため、分布を広げるための戦略は主に種子を拡散することにかかっています。「岩生植物」が切り立った岩肌や高い場所にある石の上に分布できるのは、軽くて飛びやすい種を持っているか、鳥や動物の餌になるかするからです。

九曲洞から燕子口にかけて岩壁で下から吹く風に吹かれて上向きになびいている台湾蘆竹(イネ科ダンチクの仲間)は種子が小さくて風に乗ってとんだ後、岩壁の隙間に入り込むことができるので、切り立った崖でも分布することができるのです。太魯閣地域ではその他に、風を利用して種子を拡散させる植物としては、タンポポの仲間の「森氏菊」、アレノノギク(台湾狗娃草)、アツバクスノハカエデ(樟葉槭)、ナカハラカエデ(青槭)、ムクロジ(車桑子)、タイワンハンノキ(台湾赤楊)などがあります。これらの植物の種子は小さく、中には羽が生えたようになっていてよく風に乗って飛ぶものもあります。また鳥や動物を介して種子を拡散させる植物にはクワ科のイチジクの仲間、アコウ(雀榕)、ハマイヌビワ(白肉榕)、─イチジクの仲間でその実がおいしいことは想像できます─やサイカチ(皀莢)、グミ(胡頽)などがあげられます。

雀榕)、ハマイヌビワ(白肉榕)、─イチジクの仲間でその実がおいしいことは想像できます─やサイカチ(皀莢)、グミ(胡頽)などがあげられます。

植物の種子が岩の隙間に根を下ろして発芽した後、続けて岩壁で生長していくには、乾燥に強くしばしば起こる崩落にも適応できなければなりません。そのような環境では大型の喬木は育つことはできないため、岩場には背の低い潅木状に育ったランシンボク(黄連木)やムクロジ(車桑子)の仲間がよくみられます。崩落が度々おこるので植物が長期にわたって岩壁に生息するのは難しいのですが、ごく少数の植物、例えばハマイヌビワ(白肉榕)などのイチジク属の植物は気根が発達しているため、小規模な崩落では大きな影響を受けることはありません。一方、両側に切り立った崖が迫った、幅の狭い峡谷では日照が少ないため、台湾蘆竹の群生が観察されます。生態的に台湾蘆竹と同様の位置にあるトキワススキ(五節芒)は、日差しが充分に当る山の斜面に生えています。峡谷の幅が広いか狭いかによって、このように植物の種類も変わるので、ぜひ観察してみてください。 (文:林茂耀)

学習の旅 中部東西横貫公路の開設

中部横断道路の開設は山を開き、橋を渡すことの繰り返しでした。1958年現在の流芳橋施行にあたって国軍工兵によってベーリー橋が峡谷の両岸に渡されました。

1949年、政府は経済の発展と国防上の考慮から、台湾の東部と西部を結ぶ横断道路を開設することを決定しました。そこで、まず図面上で南部と北部にそれぞれ候補地があげられました。南ルートは南投春陽から花蓮の銅門まで、北のルートは則日本統治時代に開設した合歓越嶺道にそったもので、霧社から太魯閣までの道が提案されました。1952年から翌年にかけて数回にわたって実地調査が行われ、その結果、北ルートの条件が適しているという結論が出されました。

その後、「1955年度軍援軍用道路計画」により、台中県の東勢から花蓮までと、同じく東勢から宜蘭県の羅東までのルートが提案されました。1954年末に再び現地調査が行われ、その結果、東勢から太魯閣までの全長192.78kmを幹線とし、梨山から羅東までを宜蘭支線とすることが決まりました。又幹線の施工に当たって機材や物資の供給の便を考慮し、旧合歓越嶺道の霧社から大禹嶺(当時は合歓埡口とよばれていました)までを供給線として切り開くことになりました。これが今日の全長43kmの「霧社支線」です。

車両用の橋も人が通過するためのつり橋も工事に携わった人たちが危険を犯して立霧渓の急流を徒歩で渡るところから始まりました。

こうして7年にわたる調査と関係者の奔走の後、さらに半年の時間と412万元をかけて4組の測量チームによる全線の測量が行われ、1956年7月7日に正式に着工にかぎつけました。当時は「完成できるわけがない」と批判的な意見もありましたが、5000人の退役兵からなる栄民建設総隊と陸軍歩兵、軍事監犯、職業訓練総隊隊員、失業青年、学生、民間建設業者の従業員らが力をあわせ、毎日のべ5000~6000人を動員して工事は進められました。その間、台風、地震、豪雨などの天災の脅威に何度もさらされ、多くの死傷者と機材の損失を出しながらも、岩層をくりぬき、谷に橋をわたし、総工費4億3000万元と3年9ヶ月18日をかけて、1960年5月9日ついに全線開通、台湾の交通史に新たな1ページがくわえられたのです。 (文:高琇瑩)

学習の旅 太魯閣を通って中央山脈を越えた最初の道

日本統治時代に開かれた合歓越え道の中でも、錐麓断崖地点は地上400メートルのところに岩をくりぬいて造られた人一人がやっと通れるだけの危険な場所でした。

合歓越嶺道は太魯閣地区を通って中央山脈を越えて造られた最初の横断道路です。日本統治時代1914年、日本政府は太魯閣山中の原住民に対して「太魯閣番討伐」戦を断行しました。それに先立って同年4月、山中での軍事行動を滞りなく進行させるために、当時の南投庁長、石橋享が指揮を取り開削隊を率いて西側の埔里を出発、霧社、合歓山、關原、魯比、卡拉寶と中央山脈の西側から軍用道路を切り開いていき、7月17日に天祥に到達しました。この工事には中国人労働者300人と日本人の警察官60人が動員され、もとからあった原住民の集落間連絡道を利用して軍用道路が造られました。ダイナマイトを使って道幅を1.2~1.5mに拡張し、渓流にはワイヤーの吊り橋をかけ、一日平均1.9kmの道を切り開いたと記録にはあります。一方同時期に東側の花連の新城から天祥までの30kmの道も同様に開かれ、東部からの討伐部隊の通行に使われました。これが合歓山を越えて造られた最初の道です。

1914年8月に太魯閣事件が終わると、日本政府は「捜索隊」を出して2年かけて事件後の処理をするかたわら、埔里から太魯閣峡谷までの道を物資輸送と資材運搬にも使える警備道路として整備しなおしました。また1915年から1921年にかけて、陶塞支線、托博闊支線が開通しました。

合歓越え道はいくつもの長い吊橋が立霧渓に渡されていました。

その後合歓越嶺道沿線の山々と渓流の美しさに注目した台湾総督府は、大衆の登山、ハイキング用に更に大規模な整備を進め、1935年3月には幹線と支線が網の目のように広がる登山コースが整えられました。沿線には宿泊施設も設けられ、一般の人々も太魯閣から霧社まで徒歩で5日間で行けるようになりました。 その後、原住民は平地へ移住を余儀なくされ、やがて大二次世界大戦が勃発し山中の活動は中止されました。戦後は中部東西横貫公路も開通したため、合歓越嶺道は使用されなくなりました。長年維持管理が行われないまま、古道は草木に覆われ、山壁の崩落などによって荒れはててしまったことはいうまでもありません。タロコ国立公園が設置されてからは、専門家に調査を依頼するとともに、古道を整備して一部遊歩道に修復、開放しています。現在の緑水遊歩道や梅園竹村遊歩道などは、かつての合歓越嶺道の一部がそのまま残っているところです。 (文:高琇瑩)

学習の旅 合歓山はなぜ雪見ができるのでしょう

毎年一月から二月にかけて寒気団が台湾を襲うと合歓山は雪に覆われます。

冬が来て雪の季節になると、台湾では合歓山が話題にのぼります。このころには海抜3000mを超える合歓山では秋の紅葉が一変して銀世界になります。これは亜熱帯の島に住む台湾の人々にとっては、待ち遠しいもので、合歓山に雪が降ったと報道されると雪国の風情を楽しもうと登ってきた人々で山は賑わいます。

ではなぜ合歓山で雪が見られるのでしょう。気候と地形の影響から説明しましょう。台湾では冬に入ると北東から強い季節風が吹き付けます。合歓山は、もろにその風を受け、その一方で、太平洋からは水分を含んだ空気が立霧渓の谷に沿って上昇気流になって昇ってきます。この二つの気流がちょうど合歓山一帯でぶつかり、豊富な降水量をもたらすのです。そうした時に寒波が襲うと、雨が雪に変わるのです。

さらに合歓山の地形は東側の風を受ける斜面が緩やかで、西側はやや険しいため、雪が降ると積もりやすく融けにくくなります。通常、山中の雪は気温が上昇する三月に入ってから少しずつ融けていきます。

合歓山一帯はちょうど中部東西横貫公路の霧社支線(台14号甲線)が通っているので、交通の便に恵まれ、長年にわたって台湾で最も有名な雪見の名所として親しまれてきました。高山は天候の変化が激しく、日中と夜間の気温差が大きい上に、積雪すると滑りやすいため、雪のシーズンに山を訪れる時は、防寒防水の装備や必要な医薬品を持参、ピッケルやアイゼンなどの雪山装備も整えていくようにしたいものです。車にもチェーンが必要になります。 (文:林茂耀)

学習の旅 合歓山の夏の花々

合歓山ではニイタカトドマツとタイワンツガの混生林が見られます。

高海抜の合歓山一帯では春の終わりから夏にかけて次々と花が咲きます。

4~5月:高山に春が訪れると、最初に花の季節を迎えるのはツツジの仲間です。ニイタカシャクナゲ(玉山杜鵑)、森氏杜鵑が山の斜面のあちこちや森の周囲で色鮮やかにピンクの花を咲かせます。ツツジのシーズンはとても短いのでお花見はこの時期を逃すとまた一年待たなければなりません。

5~6月:ニイタカシャクナゲ(玉山杜鵑)、森氏杜鵑に続いて咲くのは、アカゲツツジ(紅毛杜鵑)です。この種類は株は大きくならないものの、分布が広く満開になるとニイタカヤダケ(玉山葥竹)の丘陵が桃色の化粧を施したように染まります。翠峰から昆陽までの間と小風口から合歓北峰までが、アカゲツツジが最も美しく見える場所です。この時期タカサゴユリもそろそろ花の季節に入ります。

6月以降:色とりどりの花が少しずつ咲き始めます。リンドウの仲間の紫色の花をつける阿里山竜胆、黄色い花が鮮やかな玉山竜胆、そしてイタドリも真っ赤な花をつけ、ムカシヨモギ(玉山飛蓬)、ツリガネニンジン(高山砂蔘)、アキノキリンソウ(一枝黄花)、ウメバチソウ(梅花草)など、それぞれに花の美しさを競い合います。 (文:廖盛均)

学習の旅 高山植物の花はなぜ特別鮮やかな色をしているのでしょう

高山植物は岩にしがみつくように生えています。

夏にタロコ国立公園の高海抜地域を訪れると、赤、黄、紫、白と一面に咲いた色鮮やかな花の美しさに目を奪われずにはいられません。これらの高山植物の花の色が特に鮮やかなのはなぜでしょう。

理由は二つ考えられます。一つは蜂や蝶をひきつけるためです。高山は一年のうち3~4ヶ月は雪に覆われ、その間、背の低い高山植物は雪や霜に埋もれて生存できないため、春の雪融けから秋までの8~9ヶ月の間に発芽し、葉をつけ、開花、受粉、結実、種子の拡散といった生命のサイクルを完了する必要があるのです。それで短期間にすべてが順調に進むよう、高山植物は色鮮やかな花をつけて昆虫をひきつけ、受粉を促すのです。

もう一つの重要な理由は、紫外線対策です。太陽の光に含まれる紫外線には植物の生長を抑制する作用があります。高山は空気が薄いため、平地の植物のように大気によって紫外線をさえぎることができません。そのため、高山植物は紫外線を吸収するアントシアン(Anthocyanidins)という物質を多めに持っていて、それが花の色を濃く鮮やかにするのです。

高山で花に出会ったら、決して花を摘んだり、踏みつけたりしないように心がけましょう。こうした行為は大自然を破壊することにつながります。高山植物のほとんどは持ち帰っても平地では育ちません。 (文:廖盛均)