1895年(明治28年) 清朝が日清戦争に敗れ、下関条約によって台湾は日本の領土になりました。以後、1945年に日本が第二次世界大戦で敗戦するまで51年間、台湾は 日本の台湾総督府の統治下におかれました。
1912年(明治44年) 世界的な自然保護ブームの影響を受けて日本でも国立公園の設立に関する議論が始まり、1920年(大正9年)に国立公園設置に向けての具体的な動きが始まり、1931年(昭和6年)に「国立公園法」が公布されました。日本国内での国立公園設立への流れは台湾にも影響をおよぼし、同年4月、嘉義地方の人々が「阿里山国立公園協会」を結成、翌年3月には花蓮港庁でも太魯閣峡谷をアピールしようと「東台湾勝地宣伝協会」が発足し、9月には「国立公園法」の施行を求める請願書が提出されました。
1933年(昭和8年) 台湾総督府は「国立公園調査委員会」を設置しました。1934年(昭和9年)には国立公園設立を望む人々が台北で「大屯国立公園協会」を結成し、翌年、「東台湾勝地宣伝協会」は「タロコ国立公園協会」と名称を変えました。同年8月、台湾総督府が正式に「台湾国立公園協会」を設置すると、民間からは次々と国立公園設置を支持する声が寄せられました。
1935年(昭和10年) 台湾総督府は民間の圧力の下、政府代表と学者専門家20~30人の委員から成る「国立公園委員会」を発足させました。当時の中村健茂・台湾総督が会長、総督府総務長が副会長を務め、他の3名の委員にも陸軍少将、海軍大佐が就任したことから、当時政府が国立公園の設立を重視していたことがうかがえます。そして「台湾国立公園法」が公布され、設立基準と方針が発表されました。
1936年 (昭和11年) 2月に「第一回国立公園委員会」が開かれ、大屯山・次高太魯閣・新高阿里山の3ヶ所が国立公園の候補地に挙げられ、2年にわたる調査が始まりました。