2022年5月布洛灣吊橋、布洛灣吊橋に改名
※布洛灣吊橋を利用する際は事前のインターネットでの予約が必要です。予約は布洛灣吊橋預約系統から。
開放時間9:00~16:30(第一週、第3週の月曜日(祝日の場合は翌日に順延)はメンテナンスのため入場できません。
布洛灣伊達斯廳脇の遊歩道に入ると布洛灣吊橋にでます。布洛灣河岸段丘の端からタッキリ渓谷を跨る全長196メートル、幅2.5メートル、高さ152メートルの吊橋はタロコ国立公園のなかでは一番長くて高い吊橋です。橋の上からはタッキリ渓谷の曲流と両岸に聳え立つ山々が遠くまで連なっているのが見渡せ、東には渓畔一帯のタッキリ渓谷が、西には燕子口の険しい峡谷が一望できます。
伊達斯廳から吊橋の北岸デッキまでは全長500メートルのバリアフリー遊歩道なのでで車イスやベビーカーでも利用できます。

漢字の月の形をイメージした布洛灣吊橋南側主塔

布洛灣河岸段丘地図
地質
タッキリ渓では何度も地殻の隆起があったことがわかっています。川底が隆起する度に、川の流れの下方侵食が進んで峡谷が形成されます。川の流れがカーブの外側となる場所(攻撃斜面)は侵食が大きく、堆積物河床に残らないのに対し、カーブの内側となる場所は侵食が小さいため堆積物が残り、河川の下刻作用が進行すると堆積物は元の河床より高い位置になり平坦な台地状になります。布洛灣吊橋は布洛灣河岸段丘の縁にかかっていて、燕子口の狭い大理石峡谷や布洛灣河岸段丘を観察する絶好の位置にあります。

燕子口の峡谷地形
還流丘陵と渓畔、タッキリ渓谷
歴史
史料と古くからの言い伝えによるとおよそ300年前、中央山脈の西側に住んでいたタロコ族が耕地と狩猟の縄張りの不足からタッキリ渓流域に移住、家族単位の集落をつくって定住しました。布洛灣には上下の河岸段丘にそれぞれ集落がありました。日本統治時代には先住民を監視する目的でここにも駐在所が設置されましたが、1939年に起きた霧社事件の後、山中の先住民は現在の秀林郷富世村と秀林村に移住させられ山を下りていきました。
現在かかっている布洛灣吊橋は四代目になります。最も古い布洛灣吊橋は大正3年(1914年)タロコ戦役の際に隘勇線の一部としてかけられたもので、谷底近くに造られ、全長154メートルありました。主にタッキリ渓流域の先住民集落を制圧する目的で造られたものです。二代目は昭和5年(1930年)12月20日に完成、全長190メートル、高さ75メートル、三代目は昭和16年(1941年)産金道路建設中に二代目の吊橋の橋桁を破損し亀裂が入ったため、少し上流に造られました。
日本統治時代の布洛灣吊橋
山月橋は日本統治時代にタッキリ渓流域にかけられた鉄線吊橋の中では一番長い橋でした。鉄線で張られた高くて揺れる橋の上から深いタッキリ渓谷をはるか下に見下ろすと足が竦むような思いがしたことでしょう。内タロコに派遣された日本人の警官の中には長くて高い橋を前に立ち竦んでしまい、警官を辞めて引き返そうと考えた者もいたとかで、別名「辞職橋」とも呼ばれていました。当時この地を訪れた人は皆、恐怖と戦いつつ渡ったそうです。
四代目の布洛灣吊橋は、布洛灣のあまり知られていない歴史背景を伝え残すと同時に、峡谷一帯の観光客を分散し、地表とは違った角度から峡谷の景観を見る場所を提供する目的で作られました。全ルートバリアフリーで身障者、高齢者、乳幼児でも手軽に安全に峡谷の景観が楽しめる遊歩道です。
還流丘陵から見た布洛灣吊橋
布洛灣吊橋と布洛灣河岸段丘