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太魯閣族の人たちは昔国立公園内を流れる川を「大きな水」と呼んでいました。
太魯閣族の人たちは昔国立公園内を流れる川を「大きな水」と呼んでいました。
 
ロコ族は300年前に西側から中央山脈を越えて東側の太魯閣の山中に移ってきました。

タロコ国立公園の区域一帯は昔タイヤル族の居住地でした。タイヤル族は早期、霧社付近とその東側一帯に居住地を構え、主に現在の台湾中部山地、北港渓上及び濁水渓上流で農耕と狩猟を中心に生活していました。その後17世紀末から19世紀末にかけて、即ち今から約200年前、人口の増加による農耕地不足の問題や、狩猟テリトリーの確保や物々交換の便宜上、外部の敵の侵入から逃れるため等の理由からタイヤル族の内、東セデック亜族にあたる太魯閣族とタウサイ族が東と北に大規模な移動をしました。

太魯閣族の男性は狩猟にたけていました。

太魯閣族は主に濁水渓を北に移動、濁水渓の左岸、現在の静観西方の托魯萬(Toroko-Tarowan)に定住、人口の増加に伴って濁水渓上流に居住地を広げていきました。が、この地域は寒く、土地が痩せていた上、農作物の収穫が少ないため、生活は苦しかったと思われます。それに加え更に人口が増え、農耕地も不足していました。1732年前後太魯閣族は狩猟の際に中央山脈の東側に広く青々した原野があることを発見し、東側に移動することを決め、奇來主山奇來北峰(Kiliiyun )から立霧渓に沿って、現在の花蓮秀林郷の山地に段丘やなだらかな傾斜地を求めて次々と移り住んできました。

タウサイ族は今日の南投県仁愛郷蘆山の東方の河流域に定住していましたが、近隣の部族と狩猟テリトリーをめぐる争いが起こり、二手に分かれて移動しました。一つのグループは北へ移動、中央山脈西側から奇來主山を経て、東側の花蓮県梅園に入り、もう一つのグループは南湖大山を越えて、陶塞渓中流の魯多候地方へ移りました。約200年間に部落は増え続け、太魯閣山中には1930年時点で79の部落がありました。

太魯閣族の女性の社会的地位は機織の技術の良し悪しで決まりました。

1895年日清戦争後、台湾は日本の統治下におかれました。原住民の日本政府に対する抵抗は強く、日本政府は1910年から「五ヵ年理蕃計画」という大規模な対原住民政策を実行し、28回に渡って軍事行動を起こしました。其のうち最後となった1914年5月31日に発動した「太魯閣征伐軍事行動」は最も抵抗の強かった、太魯閣山地に住む太魯閣族を対象とした大規模なもので、軍と警察、役夫合計2萬人を動員し、60日あまりの激戦の結果、太魯閣族の集落は全て日本の勢力下に置かれました。その後、山地に道を網の目のように開き、警備機関を増設し、立霧渓本流、支流流域には42の警察官史駐在所が設けられました。1918年、山間の原住民に対して、駐在所付近への集落移転勧告が始まり、1930年の霧社事件がきっかけで、政策が変更、原住民は全員平地に強制移転されることになり、太魯閣山地の部落は河口付近のサカタン社とハロク社を残して平地に分散して転居させられました。これが原因で長年山の中で自然とともに生き、育んできた原住民の独特の伝統や文化、信仰は部落が破壊したことにより、伝承されなくなってしまいました。

太魯閣族は竹や籐を使って籠や器など日常用具を作りました。

1945年台湾が中華民国に返還されてからは、原住民の移住や就職は自由化され、政府の指導によって、生活も改善されました。その多くが条件の良い地域に移り住んだため、自然条件の厳しい太魯閣山間の人口は急激に減少しました。1951年に計画が始まった中部東西横貫公路が1956年7月7日に着工、三年あまりの歳月をかけて、1960年に開通、その工事中、施工期間の食料供給の便宜を図るため、沿道の河岸段丘や山の斜面を切り開いて西寶農場を開設しました。道路開通後、工事に従事した退役軍人たちが農場を引き続き経営し、山間に定住し、大部分がそこで地元の原住民女性と結婚し、家庭を持ちました。現在は退役軍人は其の多くが老齢のため山を去り、その二代目が農場をひきついでいます。また一度は失われた太魯閣族の伝統も各方面の指導協力を得て、復活しつつあり、新しい部落の復興が期待されています。